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藤田 大(Fujita Dai)
1972年 神戸市垂水区生まれ
1991年 高校を卒業し、宮大工集団㈱鵤工舎に弟子入り
2001年 洲本市安乎町にある小川寺を建てるために淡路に移住
翌年、小川寺完成で独立。淡路に住み子供達の故郷をつくろうと決意。
2012年 岡山で新築する本堂のために現在地を購入。そこにあった古民家を改築。
他の解体した家の材木をかき集め、再利用する民家再生の良さや楽しみを感じる。
2014年 志筑 福田寺を新築。阪神淡路大震災で全壊した本堂が20年の歳月が流れ新しくなり、住職さん、檀家さんの喜ぶ顔を見て、大工になって良かったと改めて思う。
淡路工舎
1.時間の蓄積が息づかいとなって
洲本市安乎町に、本日取材させていただく淡路工舎がある。私たちが普段よく通る道路のそばにあるのだが、目線よりも少し高い場所に位置するため、風が通り、田舎らしい景色を見渡すことができる。もう少し暖かくなれば、山の木々は若芽を伸ばし、新緑が鮮やかな風景を描き出すのだろう。
敷地内には、大きな作業場が左右にあり、職人さんたちが和やかな雰囲気で働く姿が見える。正面には藤田さんの自邸。働く場所と、暮らしが緩やかにいい距離感で同じ空間の中にある。
藤田さんの自宅は、中に入ると、規則正しく組み上げられた木組の美しさに目が止まる。ふわっと香る木の香りや、木の建具、土壁など思わず触りたくなるあたたかな自然素材であふれている。どうしてこんなにも心惹かれるのだろうと思っていると、ここにもともと建っていた古民家を改築したのだと教えてもらう。もともとここにあったもの、他の古民家から出た廃材を持ってきて使っていると。なるほど、この感覚は、この家の材が培ってきた時間の記憶や想いが息づかいとして伝わってくるからなのだ。
2.失われていくものに命を吹き込む
14年前に独立し淡路工舎を興した藤田さんが、こちらの場所に仕事場と住まいを移したのは2012年のこと。この場所との出会いはもう少し古く、以前の職場、鵤(いかるが)工舎にいた頃まで遡る。
「まだ鵤工舎にいた頃、この近くの小川寺というところを建てるために通っていた時に出会った。作業場もあって、広くていいなぁと思っていた。」という。いくつかの巡り合わせがあり10年越しの思いが叶い、この土地を手に入れることができた。「ゴミ屋敷のようだった」と藤田さんが話すように、以前の所有者の持ち物が大量にそのまま残され、雑草が生い茂りその姿が隠されていたこの場所に、再び命を吹き込んだ。全て自分たちの手で、荷物を運び出し、整理したそう。生かし方、使い方次第で、誰からも見向きもされない場所だったのがここまで魅力的な姿に生まれ変わることができるのだ。
3.ふるくて新しいもの
これは哲学者ニーチェの言葉である。藤田さんに取材をした後すぐに出会った言葉なのだが、藤田さんの想いと通じる部分があったので、紹介したい。
ー何か新しいものを初めて見つけることではなく、古いもの、古くから知られていたもの、あるいは誰の目にも触れていたが見逃されていたものを新しいもののように見出すことが真に独創的なことである。ー
新しいのがいいものではない。古いのがいいものということでもない。だけれど、先人から引き継がれて今なお残るものには、歴史という豊かさや時代を経て残る記憶や、込められた想いがある。先人たちが築き上げてきた技術で、人の想いが込められた手仕事で、そういう想いを込めて藤田さんは仕事をしている。
「今の人は古いものを捨てたがる。淡路島には、淡路島特有の家のかまえがある。せっかく代々続いてきたいい家があるのに、壊すのはもったいない。リフォーム次第で、元々あるものを使ったりして、残していくことができるのに。そういう大切なことをもっと考えていけたら。」と話す。淡路工舎では社寺建築を主に、古民家再生や伝統構法での新築も手がける。「本物の技術で、構造は伝統的にしっかりと建てられた家は体感が違う。揺れにも強い。金物を使ってのしっかりとは意味合いが違う。」そこに身を置くと、五感で感じることができる心地よさがあるという。そこには、目には見えないけれど心の深いところで感じるなにかが残されている。
4.父から勧められた一冊
「いつからか漠然と大工になりたいと思っていた。岡山にいる叔父が製材、建築の仕事をしていて、いつも田舎に行くと刻みの作業をしていた。」本物の手仕事が身近に感じられる環境で、自然と?必然に?生まれた漠然とした思いは、父から勧められた一冊によって導かれていくことに。1300年を超える長い時間を経て、なお今にその姿を残す日本最古の建造物、法隆寺に仕えた法隆寺最後の棟梁「西岡 常一」に魅せられ、宮大工の道を志した藤田 大さん。父から勧められ手に取った西岡 常一「木に学べ」という本は、藤田さんが人生で初めて最初から最後まで読んだ一冊となる。「法隆寺に西岡棟梁あてに手紙を送った。そしたら棟梁からハガキで返事がきてん。今は自分は弟子は取ってないからと、一番弟子の小川三夫さんを紹介された。」
西岡棟梁の唯一の内弟子、小川三夫氏が興した鵤工舎という宮大工の工人集団に、高校を卒業した藤田さんは入舎することになる。
5.手から手へ引き継がれて来た「手の記憶」
「俺が入った日が3月25日で、その日に薬師寺の落慶法要があってそれに出させてもらった。
俺は、入舎した時期が良かった。入ってすぐ色々なことをやらせてもらった。」と話す。
鵤工舎では、皆共同生活をする。弟子入りするとまず皆の食事の用意から、そして道具の研ぎ。西岡棟梁の本にもあるが、道具は体の一部。刃物が研げなければ道具は使いこなせない。知識としてではなく、己の手を動かすこと、その時間の蓄積が、手の記憶として刻み込まれる。
「8年ぐらい経ってようやく仕事がわかってくる。それまではやれと言われたことをこなすので精一杯。」と藤田さんが話すように、決して近道や早道はなく、木を見て、道具を見て、仕事ぶりを見て、そうした時を重ねていくことで、技術、考え方、知恵を記憶として引き継いでいく。
藤田さんは、いま二人の弟子をとっている。二人とも故郷を離れ、ここ淡路島で藤田さんと寝食を共にしている。作業場の二階の片隅に設えられたプライベートな空間からは、常に仕事について学ぶ機会にあふれている。例えば、すぐ脇には藤田さんが描いた原寸大の設計図が床に広がっている。また、下には作業場があり、道具があり、木の材が並べられている。本人の心構え次第ではあるが、そこには藤田さんが用意した学びの場がある。「弟子たちが本当の大工に育ってくれることを楽しみに、そしてしっかりとした仕事が何なのかを体で覚えられるような場所を作っていくことが生きがい」との想いで。
受け継ぐ立場から、次の時代に繋いでいく立場に。終始穏やかな表情で話す藤田さんの目には強さがある。はるか未来まで見据えているような。
そう、昨春、藤田さんの長男が鵤工舎に弟子入りしたそう。 「大工になれとは言ってない。ただ自分のしたいことがあればしたらいいと伝えていた。」という。自分で連絡を取り、弟子入りを志願したという息子さんは、朝4時半に起きて17人分の食事を作る生活をしているという。父親と同様にして、ここから息子さんは学びを積み重ね、手の記憶を引き継いでいくことだろう。いつかあとを継いでくれたらと最後に控えめに付け加えた。